当日本を手に取っていただいた皆さま、ありがとうございました。なんとか無事に終えることができました。前回、前々回のブランクを経て、新しいサークルでの参加ということで、いざ即売会となると身が引き締まる思いもありましたが、終わってみればいつも通りで。
新刊は『ラドリンカの尾』という読み切りを描きました。とあるスラム街を舞台に、尻尾の生えた女の子とそれを取り巻く人々のお話です。表題の人名だけ、フィリップ・クーテフのブルガリアン・ヴォイスの2に収録されている”Besrodna Nevesta”という歌から借りました。
サークル名を新たに、同人活動を出直すにあたり、自分はこれからどういう作品を描いていきたいのか、という点を改めて考えてみました。普段は一切読まない、昔作った本を全部読み返してみたり。そうすると、絵も内容もすごく稚拙だったり、逆に進歩のなさに途方にくれたりするわけですが、唯一、昔のほうが丁寧に作品に向き合っているんですよね。ヘタだけど、ヘタなりに頑張ってるなぁというか。
同人活動に関して言うと、私は挫折ばかりで、よく今まで足かけ9年(前身サークルでのコミケ参加も含めると11年)もマンガ描いてるなと思います。本当に、やめられるならやめたい。でも、自分のなかの何かがそれを許さないのです。かといって創作のアイデアが溢れ出てくるわけでなし、空っぽの井戸から水滴をすくい集めるみたいなことを、毎回毎回やってます。この苦行はどこまで続くんだろうと思います。
たまたま、原稿が上がったその日にウェブを巡回していたら、ある書評ブログで、『いまファンタジーにできること』という本に関連して書かれた、気になる一節を見つけました。
ファンタジーと未熟さをごっちゃにするのは、かなり大きな間違いだ。合理的だが、頭でっかちではなく、倫理的だが、あからさまではなく、寓意的というよりは象徴的――ファンタジーは原始的(プリミティブ)なのではなく、根源的(プライマリー)なのだ。
『いまファンタジーにできること』:紙魚:So-netブログ
私は、11年前に初めて描いたマンガもファンタジーだったし、遡って高校時代に文芸部で書いていた小説も全部ファンタジーだった。結局、ファンタジーが描きたいのです。それも判で押したような剣と魔法の冒険譚「ではなく」、現実で起こりうること以外の全てを網羅した、自分という人間の想像力の地平としてのファンタジー。それって必ず、知識や思想や美的感覚や、あらゆる点において自分自身を鏡映しにしたような、ウソのない作品になると思うんです。そういう作品を残したいというのは、なんというか理屈ではなく、子孫を残すような本能的な欲求なのかもと思います。
とはいえ、あらゆる表現がそうであるように、文法やルールへの深い理解があってこその作品作りなので、その意味でなるべく質の高いものが残せるよう、勉強していきたいと思います。今後もサークル「鏡像フーガ」、よろしければお付き合いください。
次回の「コミティア104」は、4月末の「M3-2013春」参加のためひとつスキップして、8月のコミティアに参加予定です。